展覧会レビュー

音は伸縮可能なのか。音は空間に置くことができるのか。音は可視化できるのか。
そして、音は人と人の間で受け渡し可能なのか。アーツ前橋館長 住友文彦

音は伸縮可能なのか。音は空間に置くことができるのか。音は可視化できるのか。そして、音は人と人の間で受け渡し可能なのか。
蓮沼執太のインスタレーション展示は、こうした問いかけによって音に物質的な特徴を見つけ出す試みに見える。それは、身体感覚では捉えがたい非物質的なものの性質を楽しみながら、自分の身体によってなんとか触れないものに触ろうとしているようにも感じる。
私たちはどこまで知覚できるのか。そうした際を探るような試みに私たちは表現の実験性を見出す。しかし、蓮沼に極限まで表現を切り詰めていくような態度を感じることはない。むしろ、等身大の感覚を用いながらそれに接してしまう点に、彼の表現の独自性がある。まるで、実験音楽のポップスターと呼びたくなるような軽やかさである。それはメディアを通じて見える蓮沼の姿とも重なるが、批評的な視点によって脱神話化を試みるとそこには何が立ち現れるのだろうか。

蓮沼が音から物質的な特徴を切り出し作り上げる展示空間を眺めていると、日本のアーティストたちが音と空間のあいだを行き来しながら探求してきた偉大な歴史が継承されていることに気づく。そこで頭に浮かぶのは、小杉武久、藤本由紀夫、大友良英、池田亮司、などの名前である。つまり、音に形象を与えることで、不確定性、持続性、即興性、不可視性といった音が持つ特性を眼に見える形として明快に示すことに魅了されるアーティストがじつは日本には数多くいる。だから、蓮沼が作曲と演奏だけでなく、物質的な表現を用いた展示をおこない、美術表現と接点を持つことはある意味で必然だったのかもしれない。
では、蓮沼が独自に持っている特徴とはどんなものか。彼は専門的な音楽教育を受け、作曲や演奏をおこなっているアーティストではない。十代の初めに出会った音楽に影響を受け、アマチュアバンドをはじめたわけでもない。あくまで個人的に音への関心を探求し、実験音楽などを含むかなり多くの音を自分の中に蓄積させてきた。このことは彼がどのように音の引き出しを開け、取り出してくるのかを考えるうえで重要な意味を持っているように思える。ここで例えば、あなたが使う言葉使いを考えてみると、そこには何らかの癖や習慣が必ず染み込んでいるはずだ。自分の中に蓄積している言葉が家族、教育、読書などの影響によって序列を作りなんらかの形を持っている。その序列から自由になって、言葉を自在に扱うのはそんなに簡単なことではない。音楽家が作る音楽も基本的には同じである。しかし、蓮沼は引き出しに並べた音に序列をつけず、演奏する相手、空間、観客と向き合いながら自由に取り出すことができる。「古典」「芸術」「実験」「大衆」「伝統」「自然」「流行」など、様々な音の響きに付けられた異質な形容詞は全て等しく並べられ、彼の感覚によって配置される。蓮沼執太というひとりの個人がひたすら音を自分の中に蓄積してきた豊穣なコレクションは、教育や、同時代性や、芸術のジャンル間ヒエラルキーなどから自由になり、観客と空間のあいだで躍動する。私は、この中心と周縁の差異を無化させる手つきこそ、「ポップス」と呼んでみたいと思う。それは大衆向けに形式を整えられた音楽の様式ではない。既成の価値観が生み出す序列から自由になるためのポップスである。
それともう一つ蓮沼の音楽の特徴として挙げておきたいのは、彼がフィールドレコーディングから出発していることである。つまり、それは音を出すのではなく、周囲の音を録音し聴く行為である。作曲家、あるいは演奏家である前に、彼は聴く人だった。それは、蓮沼フィルのような大所帯のメンバーが互いに音を奏であうような場であっても、どこか傍観者のような眼差しになる蓮沼の姿とも一致する。
音を奏でる/創る人ではなく、音を聴く人としてのアーティスト像を認めるには、無から表現を生み出す創造主神話を解体させる必要がある。しかし、よく知られているようにこの系譜にもジョン・ケージからクリスチャン・マークレーへと連なる豊かな鉱脈がすでに存在している。聴こえる音に唯一無二のものとして向き合い、多数性の海の美しい輝きをしなやかな手つきで指し示すような表現者たちである。そのしなやかさは結晶化や分節化よりも、隔てられていたものの間に循環を生み出すため、ラディカルな価値の転覆が潜んでいる。例えば、フェリックス・ガタリが社会的制度の中に置かれた人間をめぐり、上下/水平関係ではなく斜めに走査する線を無数に作り出したように。ガタリは資本主義による感性の管理統制を批判しながら横断性について語るとき、自然環境、社会、主観性の三つのエコロジーを結びつける。この生態学的循環をそこかしこに見い出し、型にはめられ、消費される「主観性」を、個人が自らの特異性によって作り出すことができるものとして再創造することを強く求める。
そう考えると、フェリックス・ガタリという難解で独特の用語を駆使する思想家/活動家による現代社会の理解に今でも十分有効な分析に対し、細身の優しげな日本のサウンドアーティストが試みる斜めに走るための戦略がある。そう、もしかしたらモダニストたちの実験や市場主義によって断片化した音の瓦礫を、彼は「うた」によってつなぎとめているのかもしれない。乾燥し抽象的な概念や商品の世界に、感情を備給するものとしての「声」。情緒や心の働きは、きっと主観性を型にはめられた個人から、人間と自然のあいだで響きあう多数的なものへ移行させるだろう。
見えない性質のため、捉えどころのなく偏在する音に形を与え、私たちがその中を歩くインスタレーション作品の展示。あちこちで立ち止まり音に耳をすませ、あるいは異なる音の間に立つことは、フィールドレコーディングにも似た体験である。そこにもおそらく「うた」は聴こえるだろう。
あるいは、冒頭の問いかけの文章にあるそれぞれの主語を「音」から「時間」に置き換えてみても同じことかもしれない。音をめぐる思索は、この有限の存在である私たちがどのように世界と関わり合っているのかを知るための手段なのである。

住友文彦(すみとも ふみひこ)

アーツ前橋館長/東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科准教授。
これまで東京都現代美術館などに勤務。オーストラリアでおこなわれた「Rapt!:20 comteporary artists from Japan」展(2006年)、中国を巡回した「美麗新世界」展(2007年)、メディアシティソウル2010(ソウル市美術館)、あいちトリエンナーレ2013などの共同キュレーターをつとめる。