蓮沼執太 | Shuta Hasunuma

2/13 2021

Date

2021.02.13

晴天の土曜日午前中。今年の3/11に行うプロジェクトについて、アイデアをずっと絞っていた。とりあえず、この2週間ほどずっと考えて抜いてきたことを記述して、なんとかまとめ上げた。まだまだラフスケッチのアイデアではある。色々と考えすぎてしまっている気がする。午後にスタッフとミーティングをして、来週から本格的に動き出しそうな気配。ただ、関わっている人が多くて、自分のペースでプロジェクトが動かせるのか、少し心配ではある。東日本大震災から10年が経つ現在は、さらに混迷を極めている状況が続いている。

お昼は池袋にある劇場あうるすぽっとにて、チェルフィッチュ『消しゴム山』を観にいった。昨晩に公演に誘ってもらって、急に行くことを決めた。良いタイミングで誘ってくれて嬉しい。おととしの蓮沼フィル野音公演『日比谷、時が奏でる』の時に、チェルフィッチュの岡田利規さんが遊びにきてくれていた。東京にきていて、まさにこの時にこの作品のクリエーションをしていたそう。(野音ゴールド・ディスクの岡田さんの寄稿文に記載されています)

公演は退屈なほど、通常の演劇とは異なる時間軸で進んでいく。余白が多いぶん、こちらも観ながら思考が膨らんでいってしまう。例えば、グレアム・ハーマンからのオブジェクト指向存在論、人新世、ティモシー・モートンの環境哲学などが当然よぎってきた。そこで思い出したのはハーマンの言葉。グレアム・ハーマンはこう言う。「OOO(オブジェクト指向存在論)が擁護する考え方にしたがえば、対象(実在的対象、虚構的対象、自然的対象、人工的対象、人間、非人間)は相互に自立的であって、前提されるのではなくむしろ説明が必要な特殊事例においてのみ関係する。この点を専門的な表現で強調して言えば、あらゆる対象は相互に退隠している。」

さらに思い出したのが、エドワード・タイラーが『原始文化』でアミニズムへの言及の際に「宗教の最小限の定義を「諸々の霊的存在への信念」とした上で、人類の精神の深層に横たわる、諸々の霊的存在についての教理をアミニズムと名付けて考察する。」と言っていた。

この2つを思い出しながら、2時間半弱の時間をかけて観ていた。オブジェクト指向存在論を主題に扱う現代の作品に対して、僕はどうしても斜めに構えてしまう癖があって、その数多くの作品を観ていても、ナイーヴなものが多すぎて中々真髄に辿りつけないものが多い。特にティモシー・モートンの思想を現前させたような作品にいたっては、その作品の主体性が人間にあることが多く、分散的にあるアイデアの要素を寄せ集めてひとつにしたニュアンスを感じる。それも主題がホットなトピックということでもあるが、実はいつまでこのような消費的な作品を続けていくのかな?という疑問も生まれるのは正直な思いでもある。今ある危機の本質をアートで表すこと自体は肯定したいが、地球は一つしかなくて全てはつながっている、という認識が薄い。作品がプレゼンテーションされてしまう既存の制度とシステムを疑う姿勢が必要になってくる。結局は外部の要素を摂取しているに過ぎない。

その中でもこの『消しゴム山』は強度があって、鋭い刀を持っている作品だと感じた。モートン的な環境思想を受け入れるだけではなく、岡田さんの思考と身体がパフォーマンス化された作品になっていた。観ていて面白かった。僕が嬉しかったのは、直接的な言葉で気候危機を訴えていたこともある。演劇の強みはやっぱり言葉と身体だと再認識した。社会へのアイロニーも日本ならではの形を作っていて、あらゆる要素と要素の「間」の取り方が絶妙だった。これはずっとチェルフィッチュを観てきてから変わらないことだけど、変わりながら変わっていないことの凄さも感じた。金氏さんの美術の効果もあるかもしれないが、本質は岡田さんの関心されている事柄と問題意識が大いに注入されたハードコアな演劇作品になっていた。

これを書いているときに、福島で震度6強の地震が起こった。東京オリンピックに関する政治的な混乱で数週間社会を振り回していながらも、自然は活きいきと動いているわけでもある。そんな中、10年前の震災から僕は、社会は何を学んでいるのかを真剣に考えて、行動するべきだ。

ミルフォード・グレイヴスもチック・コリアも亡くなってしまった。時間は経過していくものだと感じる。
楽しいことと不安なことが入り混じっているような日だけども、スカッとする作品を観れてとても嬉しい日だった。