蓮沼執太 | Shuta Hasunuma

「タイポグラッピィ」を生んでしまうひと

Date

2013.09.18

「タイポグラッピィ」を生んでしまうひと

そうです。彼です。大原大次郎さんです。
僕にとって彼は兄貴的存在です。単純に僕より数歳年上ということでもありますが、、、グラフィック・デザイナーという肩書きを背負いながらデザインの根源を掘って掘って掘りまくっていくと、その穴は深く、更には広く、大きいものになっている。それはデザインでもあり、デザイン以上の規模になっている場合がある。それはグラフィック・デザインという分野の外にあることでも、その根っ子を見ると実はデザインの根源を成している。(デザイン、デザインと言い過ぎましたね・・・)

よく領域横断という言葉を僕の活動において定義される事が多いのですが、それはベースとして「音楽」というものが、他ジャンルにおいて必ず存在するということです。舞台には音も音楽もあり、映画にも音も音楽がある。ファッションショーには音と音楽があり、当然ライヴの現場でも音も音楽もある。あらゆる環境下での音や音楽の穴を深く掘っていくと、それは同時に広い穴にもなっていて、大きな音楽になっている。それが偶々に領域横断のように見え、「ジャンルを超える」といった、夢みたいな宣伝文句に近い表現を与えられたりします。おそらく「ジャンルの枠を超える」という表現を持っている多くの人が描く音楽活動というものは「レコードなどの録音物を作る」と「ライヴで演奏をする」という2択しか持ち合わせていないのだろうな、と感じます。勿論、この2点は音楽家にとって非常に大切な要素であるのは間違いないし、僕も最大限の発想と行動で表現しているけれど、実際の「音楽」はもっと大きくて深く、そして広い。で、何が言いたいかというと、それは大原さんが行っている「デザイン」という手法も、考え方は近いのかなぁ、と僕は勝手に思っています。

2013年の現在、「デザイン」というスタンスは個人的にはとても疑ってしまう言葉でもある。それは「アート」という言葉も同じ意味で、こちらが構えてしまう言葉でもあります。(どちらも高校生くらいから疑ってかかっている生意気な人間ですが。)個人的には非常に否定的な意味合いももっている言葉でもある。これは戦後の日本のデザイン史や美術史などを繙いていくと更に現在の両方の意味合いには賛同出来ないことになってしまうけど、それらを拒否するのももったいない。もったいない、というか拒む事で考えれる可能性を狭め小さくすることが、自分の時間軸において惜しいと感じてしまうんです。はい。
さてさて、でもでも、まぁそんな固い考えは棚の奥の方にしまっておいて、大原さんの考え方が細かい考察と自分の置かれている距離や位置の分析、そしてご自身の経験を尊重して、持ち前の兄貴的やさしい人柄と大きな想像力に僕は本当に尊敬しているのです。

そして、本題の『タイポグラッピィ』です。
内容を説明したいですが、事前に大原兄貴から頂いた、オープニングで流すオケのナレーションをした原稿をここに転載します。以下です。

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みなさま、ようこそデザインイーストへ。
これからみなさまを、タイポグラフィとラップが織りなす、
タイポグラッピィの世界へといざないます。

デザイナーではなく、ラッパーによるタイポグラフィの
ショウケース、タイポグラッピィ。

タイポグラフィは本来、ある言葉を文字として書き、レイアウトし、
印刷や映像などのメディアを通して
情報の伝達を発達させてきた、デザインの領域です。

しかしこのタイポグラッピィでは、
タイポグラフィの核でもある、
<文字>という形を、少し疑うところから始まります。

このショウは、毎日さまざまなラッパーを招き、
彼らの言葉、発声と音声による表現を通して、
本来言葉と文字が内在している、意味や、形や、感情を発露させ、
文字にとらわれない、新たなタイポグラフィを描いていく試みです。

どうか目の前に思い思いの空間を描き、
これから繰り広げられる発声と音声によるタイポグラッピィの世界を、
思う存分にお楽しみください。

それでは、本日のゲストにご登場していただきましょう。

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上記がすべてを説明しているのですが、2013年9月14日から16日にかけて行われたDESIGNEAST04という催しの大原大次郎企画として「TypogRAPy」というショーケースがありました。毎日、ラッパーが言葉、発音、音声による表現を通し、固定概念に縛られないタイポグラフィを想起する実践です。その最終日の16日に、僕と鴨田潤さんことイルリメ、そして大原大次郎との3人組でパフォーマンスをすることになりました。

まず、「ツール」「環境」「方法」という大原さんが今回掲げた言葉のテーマを元に、鴨田さんがリリックをオーディエンスと一緒に作っていきます。大原さんの手元を(紙に文字を書いたり、ペンで書く音をアンプリファイされたりします)プロジェクションできるようにカメラが設置してあり、言葉が書かれる映像と音が出力されます。その文字が書かれる紙が楽曲のスコアになり、音はドラムのような打楽器にもなります。その音を僕の手元にあるサンプラー「MPC2000XL」に打楽器の素材としてサンプリングされ、僕はその場でリズムを組みます。その間に鴨田さんはメロディやフック(曲のサビ)を考え、僕はさらにシンセサイザーでメロディや伴奏を即興的に瞬時に作曲していきます。それがその場で演奏され、その時間と空間で作られた1曲をみんなで作りながら、僕らが演奏しながら、みんなで聴く環境が作られます。一夜にして一曲が完成します。

以上を言葉で現象を伝えると非常に複雑なプロセスのように見えます。まあ実際に複雑な方法ではあるけれど、どんな複雑なこともシンプルに伝播させ共有することが僕らの実力や技術のひとつであって、その音楽が作られる現場はみんなで楽曲を見守るようなやさしい空気で進行していきます。

文字を書く動作で音が出来上がる。その出来上がった音にも言葉が内在するし、更に言葉の意味をつけ直す事もできる。例えば、オノマトペ的な音質がそのまま音になり、その音にも言葉の意味がある、、、など、様々な要素が行ったり来たりすることで、書き言葉と読み言葉とその音とその音楽に奥行きが作られ、意味合いが立体化していく。これは鋭いコンセプトに基づいて興味深い試みであるし、デザインの手法で突き詰めているし、音楽の手法で突き詰めていることでもある。こういう行為を多くのひとは「領域横断」という名をつけてもらえるのだけど、当事者(やっている僕ら)は結果として表現の作用が(ジャンル横断的に)拡がるということも理解しつつ、只管深く個人的行為の探求をしているようでもある。つまり「ジャンル」というのは強く存在していて、越える必要も無ければ、ジャンル内で活動をすることが保守的でも革新的でもどちらでも無いということでもあります。そこで表現の方向性を計る物差しにしていること自体の批評そのものが間違っているように思えます。売り物のキャッチコピーのような価値はとっても低い、、、

あ、話が逸れましたが、これら3人の共同作業によって、あらゆる視点からも深みのある表現になることもあり、それは同時にとても各自の仕事において、とても根源的な探求でもある。そういう深みのある作業をこの3人で作れることを僕は素晴らしいことだなぁ、と感じます。こういう状況を生み出してしまう大原大次郎の凄さとイルリメさんの限りない発想力に僕も負けていられないぞ!と思うばかりです。これからも「タイポグラッピィ」をよろしくお願いします。まだまだ産声を上げたばかりです。色々な時間で、色々な場所で、色々なコンディションで、音楽を現場で作っていきたいですね。柔軟なコンポジションを。