蓮沼執太 | Shuta Hasunuma

1/27 2021

Date

2021.01.27

人と会うことは気持ちがいいものだと思う。
現実に同じ時空間で会って言葉を交わすことは気持ちがいいことだと思う。

目的があるのだから必然で会っている。でも、言ってしまえばそのすべてが無駄でもあり、そのすべてが大切に感じる。それがとても瑞々しい。これは僕だけの話だけではないと思う。表情や感情と接しながら話をする機会が少なくなっているから希少にも感じる。でも、実際に貴重である。他者と共有している自分の時間とは何か?と問われることが続いている。

今日は、GINZAソニーパークで開催している『Silence Park』の話だったり(現在はお休み中)、展示作品に関しての内容の話や今年のスケジューリングなどを話たり。とても有意義な時間だった。直接会って話すことっていうのは、常々話が脱線していき予定していない情報交換になることが多い。これはオンライン・ミーティングとの対比があるからこそわかってきたこと。逆もまた然りで、オンライン・ミーティングで予定していない内容の話だけを膨らましてしまうのは、全員が共有して非合理になってしまう空気も作ったりしたり。まあ、時と場合によって変化していきますね。

そんな心地の良い縁で、広尾になるチェコセンターで、イジー・コヴァンダ『On Paper』を観る。僕の事務所と一緒のスペース「青山目黒」でも同時開催で『On Air』が開催中である。50代後半でもある作家は社会主義を生きた上でパフォーマンス・アートを行ってきた。美術教育も受けずに、その時にただアートをやりたかったからやっていただけ、とセンターの方は仰っていて、姿勢の潔さに感銘を受けた。目に見えない制約の中で生きながら、そして訴えながら、さらに自然の振る舞いとして芸術をしていくこと。ドローイング(ペインティング、イメージ・コラージュ)もモティーフの抽象さはあるけど、同時に作家の直感と意思を感じさせるミニマルな展示だった。

その後の夕方から、また籠もって作曲作業に。とりあえずラフを作って、それを聴きながら近所を散歩した。荒い部分はあるけど、そろそろ自分の手元を離したくて、夜に送信をした。こういう「放つ」作業は上手じゃない。自信が無くてどうしても理論で守って、自分を固めたがる気持ちもあるけど、それは本質じゃない気がする。もちろん、いつも自然でいることは難しいし、心細い。

そんな経験からも、自分で作って、それを放って、声を聴いて、それを感じたり思ったりして、相手に伝える、ということを、ずっと繰り返している。それが制作をすることでもある。いつも誤読や衝突などいろいろな解釈を発見して受け入れる。それがコミュニケーション。誤読の連鎖だって大切なコミュニケーションだと思う。