吉田雅史による批評(Disc2)

 BGM、という言い方がある。人が何かをする、その背景で音楽が鳴る。何かしらの行為が、営みがあり、そしてその後ろで、少し離れたところで、音楽がそちらをうかがっている。しかし蓮沼執太の音楽には、その関係を逆転させるようなところがある。音楽が先行し、行為がそれに続くような。いや、それは全然押し付けがましいものではないのだが。たとえば、彼の音楽を聴きながらタイプしているこの文章には、ひらがなを多めに使いたくなる。ゴシック体よりも、明朝体で。呼吸を整えながら。
 この27トラックの楽曲群は、制作された経緯も、時期も、方法論も、そして曲の長さもサウンドの印象も異なるが、蓮沼のキュレーションはこれらが内包するナラティヴの可能性を炙り出している。たとえば1〜10曲目、11〜16曲目、17〜26曲目の三部構成。それが筆者が受け取った可能性だ。
 第一部と第三部、ふたつの10曲の塊は、日常の何気ない一場面を積極的に捉え直そうとするメロディに溢れ、リズムが立ったBPMに支えられている。「音」はあっても「音楽」は聞こえない日常があるとすれば、彼のメロディに捕まえられた!と感じるのは、実はその日常にこそメロディは潜在しているからだ。しかし人はそれらとそれらがもたらす情感に対しての距離感をいつも測ってしまう。だからそれは多忙な日常には埋没する。
 対する第二部の6曲は、重力をテーマとした旅の音楽だ。ミュージック・グラヴィテ。BPMはすり足の速度に減ずる。日常とは異なる世界に、慎重に足を踏み出す。その一歩一歩が、足の裏で重力をまさぐる歩みだ。この未明の旅の伴侶はメロディではない。そこには行き先を仄めかす和音がある。どのような歩み方の可能性も封じられないよう、それらの和音は丁寧に敷き詰められている。
 そこではすべての音が、残響を伴い、空間をまとっている。それが空気の振動だということを、思い出させてくれる。空気を挟まない直接入力の電子音に対しては、距離のなさ、つまりは「ゼロ」という「空気の量」を感じてしまう。蓮沼本人の「Drops」への解説でも、「奥行きがある音」と「空間性のない音」を混ぜることで「無重力の気配」を作ろうとしたとある。
 6曲にわたる旅の終着地点でありDISC2の可能性の中心「Drops」は、電子音のキックで自分の居場所を確かめながら歩み出すのだが、すぐに拍子の感覚は奪われ、僕たちは小節を数える万歩計を取り落としてしまう。1分30秒後、ピアノや電子音の海に、「距離ゼロの音」—喉を潰した電子回路の唸り—が、突然現れる。それまで傾聴していた音よりも手前に、ごく耳元に、割り込んでくるのだ。つまり僕たちが脳内の音響空間で目にするのは、それらを傾聴する宙に浮く自分の背中だ。距離ゼロの音は、いわばFPS的/一人称の視点から、TPS的/三人称の視点へと、僕たちを誘拐する。そしてラストでは、持続する唸りの後に残る、遠い残響音に手を伸ばす自分自身を眺めながら、「音」ではなく「音楽」を持ちうる日常について思いを巡らせるのだ。この3分19秒間を終えて落下する僕たちの耳は、やがて第三部の冒頭で、子供たちが見つけた音たちに受け止められる。
 このDISC2で、僕たちは日常から出発し、未明の旅の末に落下し、また日常に帰還する。再生する度に、何度でも。

吉田雅史

吉田 雅史(よしだ まさし)

1975年生まれ。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。批評家 /ビートメイカー/ラッパー。『ele-king』『ユリイカ』『ゲンロンβ』誌などで音楽批評中心に活動。ビートメイカー/ラッパーとしては直近ではMA$A$HI名義でMeisoのアルバム『轆轤』プロデュース。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著)。
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